【45年の歴史】しまなみ海道が架かるまでの知られざるヒストリーを探る
1999年5月に全ての橋が開通し今治~尾道が繋がってできた「しまなみ海道」の歴史を簡単にさかのぼってみたいと思います。本州と四国を結ぶルートとしては瀬戸大橋や明石海峡大橋などがすでに開通していた時期に完成していて、一番新しい本四ルートと言えます。開通当時の地元新聞記事には「45年の悲願」の文字が大きく見出しに書かれていました。当時からサイクリングロードがあったのかも含めてまとめてみます。
こんにちは。しまなみ海道在住のサイクリスト・カワイユキと申します。しまなみ海道は初心者の方でも自分のレベルに合った情報をもとに準備すれば大丈夫!自転車でゆっくり旅する魅力をお伝えします。
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四国と本州に橋を架けたい
ご存じのとおり、四国は本州からは離れた島になっています。岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋が1988年に開通するまでの長い間、船でしか本州~四国を行き来することはできませんでした。1998年に明石海峡大橋が開通、しまなみ海道の開通は翌年の1999年です。本州と四国の間、瀬戸内海を橋で渡そうという構想はいつごろから考えられていたのでしょうか。今回、当時の新聞記事や関連書籍などを可能な限り調べて、私なりの理解としてまとめてみようと思います。
- しまなみ海道が架かるまでの歴史は?
- サイクリングロードはいつからある?
- 開通後のしまなみ海道はどう発展した?
大久保県議による提唱
「本州と四国に橋を架ける」という壮大なスケールの発想が公に提唱されたのは明治時代中期の1889年、大久保諶之丞という人物によってなされたとみるのが一般的なようです。大久保諶之丞(1849-1891)は当時の香川県会議員。讃岐鉄道が開通したときの式典で、塩飽諸島(岡山県と香川県の間の島々)に橋を架けて山陽鉄道とつなげることができれば大きな国利になるという旨を述べたとされます。実際に瀬戸大橋が開通するのは、まさに100年後ですね。
1868年に長崎県長崎市に日本初の鉄橋として「くろがね橋」が架けられ、現役の鋼橋として日本最古といわれる大分県臼杵市の「明治橋」は1902年に架橋。ようやく橋長20~30mの金属製の橋が日本にも出来始めた時期と言えそうなので、本州から四国までの巨大橋を架けることは全くの夢物語だったと想像します。この時期、アメリカ合衆国のニューヨークでは全長2km近い吊り橋「ブルックリンブリッジ」が1883年に開通していますから、全く荒唐無稽な話という訳でもなかったかもしれませんね。
鳴門への架橋構想のはじまり
大久保諶之丞による提言から50年。本州と四国を結ぶ橋を架けるという話が現実的に動き始めます。キーパーソンとなったのは、後に神戸市長を務めることになる土木工学技術者の原口忠次郎(1889-1976)という人物です。神戸土木出張所長だった原口忠次郎は、1940年4月に鳴門海峡に橋を架ける構想を発表しています。その後1949年に神戸市長に当選。技術屋市長と呼ばれた原口忠次郎は、1953年頃から神戸の各財界や国(建設省)に明石~鳴門ルートに橋を架ける働きかけを始めました。このころ、神戸市独自に調査も始めています。
しかし、全長およそ4kmにも及ぶ明石海峡に吊り橋をかけることは、圧倒的な世界最長の吊り橋を作ることとイコール。強い風や激しい潮、日本独特の地震への対策など技術的な課題が山積みすぎて、想像を絶する難しさだったそうです。実際、明石海峡大橋は1986年に工事が始まってから12年かけて1998年に完成。原口忠次郎によるアクションから45年の月日がかかったことになります。
今治~尾道ルートと砂田重政
明石~鳴門ルートの完成まで45年かかったのと同じように、しまなみ海道の開通にも提唱から45年かかったと言われます。1999年5月の来島海峡大橋と多々羅大橋開通によって、今治~尾道ルート、つまりしまなみ海道の橋が全て開通しました。1979年の大三島橋の開通から20年かかっています。開通当時の地元新聞の記事にも「45年の悲願」の文字が大きく見出しに書かれていました。
この「45年」は、1954年に今治市出身の代議士、砂田重政(1884-1957)が今治~尾道ルートを建設することを提案したことを始点としています。衆議院議員に9回当選している砂田氏ですが、1953年に落選し1955年に別の党から出馬して再選という時期。愛媛の選挙区での再選を目指すというタイミングで、愛媛県と広島県を結ぶルートの建設を政策の目玉として提案したのでは、と想像します。再選後は防衛庁の長官も務めた人物です。
ちなみに、この時の今治~尾道ルートは、やはり日本屈指の急流潮流の来島海峡に4km近くの橋を架けるということに現実味がなかったようで、この区間は船を使うという橋と船を活用したルートとして提案されました。
私の自由研究的な内容なので、ご参考程度にお読みいただければ幸いです。
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橋を架ける運動の転機
宇高連絡船の沈没事故
特に瀬戸大橋の架橋が具体的に進むきっかけとなったと言われるのは、1955年5月に起きた国鉄宇高連絡船の沈没事故。岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ船「紫雲丸」が国鉄の貨物船「第3宇高丸」と海上でぶつかって沈没、修学旅行生を含む168名が亡くなった痛ましい事故です。この事故に限らず船のルートしかなかった時代には、衝突や沈没の海難事故が頻発していたそうで、橋を架ける運動が活発になる契機となっていったようです。
実はこの紫雲丸は就航から8年間で5回の接触・衝突事故を起こしており、先述の1955年を含む2回も沈没しています。紫雲丸が最も犠牲者を出した事故のあった1955年という年は、青森と北海道を結んでいた青函連絡船「洞爺丸」が台風で沈没し1000人以上の死者・行方不明者を出した「洞爺丸事故」の翌年。社会的な影響はとても大きかったであろうことが想像できます。
誰が考えても、本州と四国に橋を架けるというのはとてつもない年月と労力、そしてお金がかかる難工事であることは明白。夢物語が現実的になっていく過程には、こうした大きな事件が関わっていたのですね。悲惨な事故のインパクトは、ここに橋を架けてより安全に行き来できるようにしなくては、という必要性を多くの人に投げかけました。
橋が架かれば、いつでも、より早く、安全に行き来できるようになりますね。
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橋を架けるルートの選定
詳しい調査の開始と起工決定
紫雲丸事故を受けてこの航路を運行していた国鉄が明石~鳴門のルートの調査を開始。翌年には愛媛県側でも中国四国連絡道路建設促進期成同盟会という会が発足しており、1959年には建設省が本州四国道路を実際に架けられるかどうかの地質調査や、実際に架けた時の経済効果を調べる本格的な調査が開始しました。この時点では本州と四国を結ぶルートには、A~Eの5ルートの候補があり、このうちのEルートが現在のしまなみ海道となっています。
1966年に技術的な検討を委託されていた土木学会が「5つのルートともに建設は可能である」という技術調査の報告を出しています。この時、愛媛県では瀬戸内海大橋建設推進委員会が立ち上がり、今治~尾道ルートの架橋運動を展開。その後、工事の難しさや工事にかかるお金などを踏まえて検討が重ねられ、1969年、建設省と運輸省により「新全国総合開発計画」の一環として、しまなみ海道を含む現在の3ルートに絞られ、優先的に瀬戸大橋の建設を目指すことが決定されました。
3つもルートは必要だった?
兵庫県と徳島県を結ぶ「明石~鳴門ルート」、岡山県と香川県を結ぶ「児島~坂出ルート」、そして広島県と愛媛県を結ぶ「尾道~今治ルート」の3つものルートが連絡されることが決まったのはなぜでしょう。緊急時などに複数のルートがあれば回避や迂回ができる可能性が増えて、より安定して行き来できることは分かります。やはり、当時から「3つも本四橋が要るのか」という議論がありました。
そうした中で、これら3つのルートを全て通すことが決定された裏には、中国四国地域の各県への配慮が伺えます。当時、中国地方の山陽側では、兵庫県、岡山県、広島県の各県で、四国地方の瀬戸内海側の徳島県、香川県、愛媛県の各県ごとに架橋を誘致するための、財界をっ巻き込んだ大きな推進団体が活動しており、架橋運動がそれぞれにかなり盛んになっていました。もちろん、工事の実現可能性や工費なども配慮された結果ですが、これらすべての県から架橋される形になっています。
これらの橋を架ける準備が進められたのは、まさに日本の高度経済成長期(一般に1955年~1973年)真っ只中。新全国総合開発計画はまさに高度経済成長の大規模開発計画そのものです。「3ルートを一気に作ろう」というのはかなり強気で豪快な決定だと思います。淡路ルートは関西圏と四国を最短で結ぶルート、瀬戸大橋は新幹線を含めた鉄道併設ルートとして、それぞれ特色が当初から考慮されていました。これらに比べるとしまなみ海道は生活色や観光色の強いルートになっていて、歩いて渡れる、自転車で渡れるということに繋がってきます。
今治~尾道ルートでは、島民が生活の道としても使えるようにすることが要望されました。
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しまなみ海道の架橋工事
24年かけてしまなみ全通
1970年に本州四国連絡橋公団が発足し、実際に橋を架ける方向にさまざまなものが進んでいきました。1973年に本四橋同時起工が予定されていましたが、オイルショックにより全て延期。実際には1975年、瀬戸大橋ルートのほか、大三島橋と因島大橋、大鳴門橋の3つの橋の着工が閣僚会議で了承され、その年の12月に大三島橋の工事が始まりました。
1999年5月1日に来島海峡大橋、多々羅大橋、新尾道大橋が完成し、西瀬戸自動車道の全橋が開通するまで、1975年12月の大三島橋着工から実に24年の月日が経っていたことになります。現在は、瀬戸大橋も明石海峡大橋も来島海峡大橋も当たり前のようにあって、3つのルートで自由に本州と四国を行き来できるようになっています。しかし、こうして振り返るとその陰に途方もないような歴史を経て今のようになっていることを改めて感じさせられました。
本州四国架橋の歴史まとめ
ここまでの「本州と四国に橋をかける」というプロジェクトの大まかな歴史を年表にまとめてみました。細かなことを挙げていけばもっと詳しい年表ができるとは思いますが、私がこれは大事だろうというポイントに勝手に絞って作成しています。
年号 | 本州四国架橋のおおまかな歴史 |
---|---|
1889年 | 香川県議の大久保諶之丞氏が、公の場所で初めて本州と四国の架橋構想を発言。 |
1940年 | 神戸土木出張所長・原口忠次郎氏が鳴門海峡架橋構想を発表。53年神戸市が独自調査開始。 |
1954年 | 今治市出身の代議士・砂田重政氏が今治~尾道ルートの建設を提案。 |
1955年 | 宇高連絡船・紫雲丸事故を受けて、瀬戸内海周辺の各県で架橋運動が活発になりはじめた。 |
1959年 | 建設省が本格的な地質調査や経済調査を開始。国鉄などが行っていた調査を引き継ぐ。 |
1969年 | 国の新全国総合開発計画で現在の3ルートの建設計画が盛り込まれた。瀬戸大橋最優先。 |
1975年 | 瀬戸大橋ルート、大三島橋と因島大橋・大鳴門橋の着工が閣議決定。工事が始まった。 |
1988年 | 岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋が全線開通。本州と四国が初めて橋で繋がった。 |
1998年 | 兵庫県の明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が開通。2つ目の本州四国ルートが完成。 |
1999年 | 多々羅大橋と来島海峡大橋が開通。3つ目の本州四国ルートとして瀬戸内しまなみ海道が誕生。 |
しまなみ海道の名前の由来
瀬戸内しまなみ海道という名前は、今でこそ一般的になっていますが、当初からついていた名称ではないんです。1996年に実施されたこの道路の愛称公募によって、決められた名称です。瀬戸内しまなみ海道という名称について、実は今まであまり語られることがなかったように思います。その命名の由来などについて、私なりに追求してみた記事です。
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サイクリングロードはいつから?
高速道路と生活道
「しまなみ海道にサイクリングロードはいつからあるの?」というのは、私もかねてから疑問で、いくつかの書籍などを当たって調べています。現在のところ、明確に「この時期に、この会議で、これらの人によって自転車歩行者専用道の併用が決められた」という記録は発見できていませんが、尾道~今治ルートの計画当初から島に住んでいる人たちの生活道を併設することが求められていたことは分かってきました。
このルートが瀬戸大橋や淡路ルートと大きく違うのは「9つの有人島を経由する」という点です。本四連絡橋を建設する大きな目的のひとつに「移動時間を大幅に短縮する」ということがあるので、3つのルート全てで高速道路の整備は前提とされました。実際に、それまで船で2時間40分かかっていた今治~尾道の移動が、橋ができて高速道路も完成*している現在は50分となっています。
*大島道路と生口島道路は2006年に開通
船の廃止をどうするか
一方で連絡橋の完成は「船から車への転換」を意味します。当時、芸予諸島の島々には網の目のようにフェリーや旅客船の航路が張り巡らされており、それぞれの島間の行き来が頻繁に行われていて、住民の最も重要な移動手段となっていました。島が橋で繋がることで航路が衰退することは明白で、実際にしまなみ海道開通時には17航路が廃止または大幅に減便されました。
17航路のうち、完全に廃止されたのは6航路で、「今治~三原フェリー」「大三島井口~生口島垂水フェリー」「今治~尾道高速旅客船」「伯方島北浦~生口島宮原フェリー」「今治~大三島瀬戸快速旅客船」「大三島瀬戸~因島土生快速旅客船」。開通時には減便にとどめていた航路も高速バスへのシフトにより、徐々に廃止されていき、最盛期から考えると現在はほとんど航路が残っていない状態となっています。
橋の完成で船がなくなることは、島民にとっては死活問題。実際に航路補償問題で、橋の工事は何度か中断していたようです。橋が完成するタイミングで廃業することになった旅客業者5社が合同で新しくバス会社を立ち上げた記録もあります。しまなみ海道の橋には、旅客船に代わる生活道としての役割、つまり自転車や徒歩でも島々を渡ることができる機能がもとめられました。
生活道から自転車道
このように、しまなみ海道架橋の当初から「生活道」を併設することが求められていたことが分かってきました。今治~尾道ルートの計画の段階では現在のような観光目的のサイクリングロードやウォーキングコースではなく、生活のための自転車歩行者道だったんですね。実は、しまなみ海道の前期にできた「大三島橋」「因島大橋」「伯方橋」「大島大橋」の4つの橋には、この名残をみることができます。
この空中写真は、国土地理院の地図でも見ることができる1979~1983年頃撮影の鼻栗瀬戸(伯方島と大三島の間)です。この時点で高速道路は伯方島ICから大三島ICまでの区間のみができている状況。よく見ると橋へのサイクリングロードもすでに現在の形になっており、橋の南西側は高速道路ではなく一般道(あるいは自歩道)に近い形で整備されているように見えます。
現在、大三島橋を含むこれらの橋では、自転車歩行者道と原付バイク道が分けられておらず、左右で高速道路と生活道に分離されたような作りになっています(因島大橋は上下)。大三島橋など、一見すると「もともと2車線2車線の計4車線のうち、片側2車線を自転車歩行者道にして片側1車線の高速道路にした」ように見えますが、建設当初から「片側1車線の高速道路と生活道」という作りになっていました。
今治~尾道ルートの西瀬戸自動車道の設置が、国道317号線の改築事業という位置づけになっていて、当初の計画に「完成時は4車線」にすることが盛り込まれていました。実際には高速道路の多くの部分がひとまずの開通を優先するために2車線で作られ、橋梁部分は後に拡大できるように4車線で作られたようです。そのため、ある意味で余った橋上の2車線分を生活道として活用し、このような構造になっています。
自転車・歩行者と原付バイク混在型の生活道の構造は、生口橋以降の建設段階では見直しがあり、「生口橋」「多々羅大橋」「来島海峡大橋」では、自転車歩行者専用道と原付バイク専用道が分離された方式での建設となり、よりサイクリングロードに近い形になっています。それぞれの橋の建設時には橋へと登る道も整備され、生活道としてのニーズから傾斜が緩やかに設計されました。これが現在の橋の前後のサイクリングロードにそのまま活用されています。
当初から生活道の役割として自転車でも通行できるように設計されていたことが分かりました。
しまなみ海道サイクリングのメインルート
四国、愛媛県のスタート地点、今治市のJR今治駅から70~80kmの距離でブルーラインと呼ばれる道しるべを辿ります。ゴールは本州の広島県、尾道市の尾道駅です。メインルートは、いわゆる最短を結ぶルートになっていて、この他にもそれぞれの島には外周ルートも設定されています。
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しまなみ開通後の発展
開通時の盛り上がり
来島海峡大橋と多々羅大橋、新尾道大橋が開通して、しまなみ海道の全ての橋が完成した当時は、ものすごい盛り上がりと賑わいだったようです。一般に開通した1999年5月1日午後5時半から2日までの間で、3橋の合計通行台数は7万5315台となり、多々羅大橋では目標通行量の4倍、来島海峡大橋では2倍以上というとてつもない数の自動車が来て渋滞もひどかったようです。
1999年5月2日に運行された尾道~松山間の高速バス「キララエクスプレス」は、正常なら2時間40分で到着できる区間になんと「9時間」もかかったそうです。この時点で大島の島内の高速道路部分が未完成だったこともあり、島内の一般道がひどい渋滞になってしまい島民の生活に支障をきたすという事態にもなったようです。
先だって来島海峡大橋の麓に開業していたサイクリングターミナル「サンライズ糸山」では、電動アシストも含む100台ほどのレンタサイクルを配備していたようですが、しばらくの間は予約でいっぱいの状況が続いて、観光で訪れたほとんどの人が借りることができなかったという新聞記事もありました。期間限定で松山駅~波止浜駅間でサイクルトレインも運行された記録が残っています。
レンタサイクル充実の必要性
しまなみ海道の開通当初は、自転車と歩行者で言うと歩行者、「歩いて渡れる」がより強調されていたようです。1999年4月22~24日に開催された「瀬戸内しまなみ海道国際スリーデーウオーク」など徒歩系イベントが多く、1999年4月25日に開催された「来島海峡大橋開通記念サイクリング大会」などサイクリングイベントは限定的だったようです。貸し出せる自転車台数も少なく、交通整理の難しさなど徒歩イベントの方が開催ハードルが低かったこともあると思います。
一方で、しまなみ海道の「自転車の道」としての価値も、認識はされていたことも当時の新聞記事などから分かります。例えばしまなみ海道開通当時の藤田雄山知事(当時の広島県知事)と加戸守行知事(当時の愛媛県知事)の対談では、両氏からレンタサイクル充実の重要性が認識されていて、加戸知事からは「レンタカーのように県を越えて乗捨てができる」理想が語られています。
レンタサイクルの歴史と変遷
1999年のしまなみ海道開通を記念して数か月に渡って開催された大規模イベント「しまなみ海道’99」が、しまなみ海道レンタサイクルのはじまりです。しまなみ海道は当時、10近くの市町を通っていて、広島県と愛媛県の県境も跨いでいるため、一体となった包括的なレンタサイクルサービスの運用は難しかったようです。
低迷期とサイクルツーリズム
実は、しまなみ海道は開通後10年間ほどの間、観光や経済が低迷していたという事実はあまり知られていません。レンタサイクルの貸出台数も低下傾向にあり、2005年には年間貸出台数が初めて3万台をわりました。開通に合わせて開園したテーマパーク「シトラスパーク瀬戸田」などの観光地の来客数も伸び悩んでしまいます。
2000年代初頭の新聞記事では「観光客はしまなみ海道を渡ることばかりで、島の経済にマイナスばかりだ」というニュアンスでたびたび論じられています。高速道路ができたことで、いわゆる「素通り現象」が島々で発生していたことが伺えます。船便の多様性が失われ、航路がなくなった港周辺の集落では急速に過疎化も進んでいました。
橋が架かって便利になった一方で、その弊害も少しずつ出てきたという感じでしょうか。
自転車の道への3つの契機
そうした地域課題を解決する可能性として、しまなみ海道の「自転車の道」としての価値の認識が進んだ背景には、3つの契機がありました。
①.平成の大合併
1つ目は平成の大合併です。2005年に越智郡のほとんどの町村は今治市に合併、2005~2006年にかけて広島県側の島々は尾道市へと合併。沿線に10もあった市町村が2市になったことで、しまなみ海道地域で足並みをそろえた施策が打ちやすくなりました。逆に言うと、合併以前は、しまなみ海道での施策で島を越える場合には関係各所の承認なども必要で、フットワーク軽く物事が決まることは難しかったと言えそうです。合併後にレンタサイクルの利便性も改変されています。
②.市民運動の活発化
2つ目に、しまなみ海道を自転車の道として活性化を図ろうという市民運動・市民活動が始まったことは、しまなみ海道のサイクルツーリズムの始まりと言えると思います。2005年ころから市民によるサイクリングモデルコースの検討が進められ、2008年には市民による地域振興を目的とした「しまなみスローサイクリング協議会」が立ち上がり、翌年にはサイクルツーリズムの普及を目指すNPO「シクロツーリズムしまなみ」が設立されています。
③.中村愛媛県知事
3つ目に、行政側での大きな変化がありました。2010年の中村時広氏の愛媛県知事就任です。自身もサイクリングを楽しむ知事として知られ、「愛媛マルゴト自転車道構想」を策定、広島県と共同で国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ」を開催、県庁に自転車新文化推進室を設置するなど、自転車文化の推進を図りました。愛媛、広島両県が積極的にしまなみ海道=サイクリングの聖地としてのプロモーションと整備を進めています。
自転車旅行が推進されていった経緯の研究もされていて、いくつか学術論文が発表されています。
初心者にも広がるしまなみ
こうした変化もあり、しまなみ海道ではここ10年程で一気にサイクリング環境の整備が進められました。2014年にはCNN(アメリカの報道機関)の旅行情報ウェブサイトで世界7大サイクリングコースのひとつに選ばれ、2019年には国土交通省による「第1次ナショナルサイクルルート」に指定されるなど、世界基準でのサイクリングルートとして一般にも知られるようになり、世界中からの旅行者が自転車旅行を楽しんでいます。
以前はスポーツ自転車の上級者がほとんどを占めていたしまなみ海道ですが、現在では自転車旅行が初めてという方も半分近くにのぼり、レンタサイクルを借りてしまなみ海道の完走を目指すことが人気となっています。
このページではしまなみ海道が架かるまでの45年の歴史をご紹介しました。初心者でも安心してサイクリングを楽しめるのがしまなみ海道最大の特徴です。しまなみ海道サイクリングの詳しい情報は、以下のページにまとめておりますので、ぜひ参考にしてみてください。